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第2話 なぜか、ものすごく避けられている

last update publish date: 2026-09-05 11:33:22

第2話 なぜか、ものすごく避けられている

 夏目陽菜と妙な会話を交わした翌日、俺は大学という場所が思っていた以上に狭いのだと知った。

 学生数だけを見れば決して小さな大学ではない。校舎はいくつもあるし、食堂も二つ、図書館もそれなりに大きい。それなのに、一度気になる人間ができると、不思議なくらい目につく。

 朝、正門をくぐったところで陽菜を見かけた。

 昨日と同じように髪を高い位置でまとめていたが、今日は部活帰りではないらしく、薄い色のパーカーにデニムという普通の格好だった。隣には、小柄で眼鏡をかけた女子学生がいる。

 俺は別に声をかけるつもりはなかった。

 昨日の件を考えれば、向こうも俺とはあまり話したくないだろう。そう思ってそのまま歩いていたのだが、陽菜がこちらへ顔を向けた。

 目が合った。

「あ」

 俺が声を出すより早く、陽菜はくるりと顔を反対方向へ向けた。

 そして隣の女子学生の腕を引っ張り、明らかに不自然な速度で歩き始めた。

「ちょっと、陽菜。何、急に」

「何でもない。急いでるだけ」

「一限まで二十五分あるけど」

「購買に寄りたいの」

「さっきコンビニ寄ったじゃん」

「大学の購買にしか売ってないものがあるの」

「何?」

「……大学っぽいやつ」

 聞こえている。

 かなり聞こえている。

 というより、声が大きい。

 俺はその場で少しだけ立ち止まり、遠ざかっていく背中を見送った。

「避けられてるな」

 自分で言ってみると、思っていた以上に傷ついた。

 いや、別に仲が良かったわけじゃない。昨日初めてまともに話しただけである。

 それでも、真正面から避けられるというのは気分のいいものではない。

 原因は分かっている。

 俺が悪い。

 というか、口が悪い。

 女の子に「汗の匂いが好き」と言って、翌日も普通に話せると思っていたほうがおかしい。

 そう考えれば当然の反応だった。

 だから気にする必要はない。

 ないはずなのだが、昼休みになって二度目に陽菜を見かけた時も、俺は無意識にその姿を目で追っていた。

 学食の入り口。

 陽菜は昨日と同じ眼鏡の女子と一緒だった。

 今度は向こうが先に俺を見つけた。

 また目が合う。

 陽菜の肩が目に見えて跳ねた。

「夏目」

 俺は今度こそ声をかけた。

 すると陽菜は、露骨に慌てた。

「ごめん、千紗。私、飲み物買ってくる」

「今、手に持ってるけど」

「これは昨日の」

「開いてるじゃん」

「じゃ、じゃあストロー」

「ペットボトルに?」

「……今日はそういう気分なの」

「どういう気分よ」

 眼鏡の女子、千紗と呼ばれたらしい彼女が、呆れた顔で陽菜を見る。

 俺はさすがに腹が立ってきた。

「おい、夏目」

「聞こえてない」

「返事してる時点で聞こえてるだろ」

「空耳」

「会話になってる」

「今日は耳の調子がおかしいの」

「じゃあ保健室行け」

「そうする」

 本当に歩き出そうとしたので、千紗が陽菜のパーカーの袖を掴んだ。

「待ちなさい。面白いから」

「面白がらないでよ」

「だって、朝からずっと変なんだもん。何なの、この人」

 千紗が俺を見る。

「同じ一年?」

「たぶん」

「たぶんって何」

「夏目の学部しか知らない」

「あなたは?」

「香坂悠真。文学部」

「へえ」

 千紗が俺を上から下まで見る。

 その視線は、初対面の人間を見るというより、何か面白いものを見つけた時のそれだった。

「なるほど」

「何が」

「陽菜、この人ね」

「何が、この人ね、なの」

 陽菜の顔が赤い。

 昨日ほどではないが、十分分かるくらいには赤い。

 千紗はさらに楽しそうになった。

「昨日言ってた、変な人」

「ちょっと!」

 陽菜が慌てて千紗の口を塞ごうとする。

 遅い。

「変な人って言ったのか」

「言ってない」

「今、言っただろ」

「言ってない」

「友達が言ってただろ」

「千紗が勝手に言っただけ」

「私は陽菜から聞いたことを要約しただけだけど」

「要約の仕方!」

 千紗は口元を手で隠しながら笑っている。

 俺は深く息を吐いた。

「別にいいけど」

「何が?」

「変な人だと思われても。昨日のあれは、俺も言い方が悪かった」

 陽菜は少し意外そうな顔をした。

「……言い方だけ?」

「そこ拾うのか」

「だって、内容は撤回しないみたいな言い方じゃん」

「嘘をついても仕方ないだろ」

「え」

 また陽菜の頬が赤くなった。

 俺は失言したことに気づいたが、今回はもう遅い。

 千紗だけが目を輝かせている。

「何、この会話。すごく面白い」

「面白くないから」

「私は今、かなり面白い」

 陽菜は本気で嫌そうに眉を寄せたあと、俺へ向き直った。

「香坂君」

「何」

「一つ確認していい?」

「どうぞ」

「昨日のさ」

 陽菜は言いかけて、周りを見た。

 食堂の入り口なので、人が多い。

 近くを通る学生もいる。

 急に声を小さくする。

「……匂いの話」

「聞こえない」

「だから、匂いの話」

「もう少し大きく言えよ」

「言えるわけないでしょ!」

 陽菜が小声で怒鳴るという器用なことをした。

「昨日の、私の……その、汗の匂いが嫌じゃないとか、好きかもしれないとか言ったやつ。本気で言ってたの?」

「本気って?」

「からかってたとかじゃなくて」

「からかってない」

 即答すると、陽菜は黙った。

「……そうなんだ」

「何でそこだけ急に静かになるんだよ」

「だって」

 陽菜はペットボトルを両手で持ったまま、視線を少し下へ落とした。

「私、そういうこと言われたことないから」

 さっきまでの軽いやり取りとは違う声だった。

 千紗も何も言わなくなる。

「昔から、結構汗かくんだよね。走るの好きだし、暑がりだし。別に自分でも仕方ないって思ってるんだけど、高校の時にさ、男子に『夏目っていつも汗臭くね』って言われたことがあって。向こうは冗談だったんだろうけど、それからちょっと気にするようになって」

 陽菜は笑った。

 ただ、その笑い方は昨日と同じだった。

 明るく見せようとしているのに、どこか無理をしている。

「だから制汗剤とか結構持ち歩いてるし、部活の後はなるべく人に近づかないようにしてる。昨日も、香坂君が下がった時、ああやっぱりって思った」

「ぶつかりそうだっただけだって」

「うん。それは分かった。でもさ、自分が気にしてることって、相手が何も思ってなくても全部そこにつなげちゃう時あるじゃん」

 その言葉は、少しだけ胸に引っかかった。

 分かる気がした。

 俺にも、人との距離を取るようになった理由がある。

 他人からすれば大したことではなくても、自分の中ではずっと残っていることがある。

「だから、昨日のあれも、最初は本気で気持ち悪いと思った」

「そこははっきり言うんだな」

「思ったんだから仕方ないじゃん」

「まあ、そうだな」

「でも、帰ってから考えたら、ちょっと分かんなくなってきて」

「何が」

「香坂君、別に私に近づこうともしなかったし、変なこと聞いてきたわけでもないし。むしろ私が聞いたから答えただけだったなって」

 陽菜はそこで小さく息を吐いた。

「それで、今日会ったら何て話せばいいか分かんなくなった」

「だから逃げた?」

「逃げてない」

「朝、明らかに逃げただろ」

「ちょっと急いでただけ」

「大学っぽいやつ買いに?」

 隣で千紗が吹き出した。

「陽菜、それ私も意味分からなかった」

「もう忘れてよ!」

「無理でしょ。『大学っぽいやつ』って何よ」

「私だって言った瞬間に何だろうって思ったよ!」

 陽菜は両手で顔を覆った。

 その様子がおかしくて、俺も少し笑った。

 すると陽菜が指の隙間からこちらを睨む。

「笑わないでよ」

「いや、悪い」

「絶対悪いと思ってない」

「ちょっとだけ」

「最悪」

 そう言いながらも、さっきまでの緊張は少し消えていた。

 千紗が満足そうに頷く。

「はい、解決ね」

「何が」

「陽菜が一人で勝手に気まずくなって、一人で逃げ回ってただけ」

「言い方」

「実際そうじゃん」

「千紗には分かんないの。急に知らない男子から、自分がずっと気にしてた部分を『好きかもしれない』なんて言われたら、普通どういう顔して会えばいいか分かんないでしょ」

「知らない男子って、昨日名前交換してたじゃん」

「ほぼ知らない男子!」

 俺は聞いていて、少し気になった。

「そんなに気にすることか?」

 陽菜がこちらを見る。

「するよ」

「何で」

「何でって……」

 口を開いたまま止まる。

「そういうの言われたら意識するじゃん」

 今度は俺が黙った。

 千紗の目が、左右に動く。

 陽菜は自分が何を言ったのか気づいたらしい。

「違う!」

「まだ何も言ってない」

「違うから!」

「だから俺は何も言ってない」

「そういう意味じゃないってこと!」

「どういう意味だよ」

「だから、自分が気にしてる部分を肯定されたら、その言った人のことまで気になるっていう意味で、別に香坂君そのものを意識してるとか、そういう話じゃなくて」

「そこまで説明しなくていい」

「説明しないと変に思うでしょ!」

「説明されるほど変に聞こえる」

「もう嫌!」

 陽菜が頭を抱える。

 千紗は完全に楽しんでいる。

「陽菜、今日すごいね」

「何が」

「一人で墓穴掘ってる」

「友達なら助けてよ」

「こんな面白いもの止めるわけないでしょ」

「友達やめる?」

「それは困る」

「じゃあ助けて」

「無理」

「即答しないで!」

 三人で立ち話をしているうちに、学食の入り口がさらに混んできた。

 後ろから「すみません」と言われ、俺たちは少し横へ移動する。

「立ってると邪魔だし、飯食うか」

 俺が言うと、陽菜が妙な顔をした。

「一緒に?」

「嫌なら別でいいけど」

「嫌じゃないけど」

 また少し間がある。

 俺はその間が気になった。

「何」

「いや、香坂君って普通にこういうこと言うんだなって」

「どういうこと」

「一緒にご飯食べる? みたいな」

「今のをそんな大げさに捉えるなよ」

「だって昨日の印象、もっと人と関わりたくなさそうだったから」

 図星だった。

「まあ、得意ではない」

「じゃあ何で誘ったの」

「流れ」

「流れで女の子とご飯誘えるなら十分でしょ」

「お前が変に逃げるから、普通に話せるって確認したかっただけ」

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

 陽菜も一瞬、目を丸くした。

「……何それ」

「何だよ」

「意外といい人っぽい」

「意外とって何だ」

「最初が最初だったから」

「まだ引っ張るのか」

「一生言うかも」

「やめろ」

 結局、三人で食堂へ入った。

 席を探すと、窓際に四人掛けのテーブルが一つだけ空いている。

 千紗がすぐに場所を取ってくれたので、俺と陽菜が料理を買いに行った。

「香坂君、何食べるの?」

「唐揚げ定食」

「大学入って二週間で安定に逃げてる」

「食事に冒険求めてない」

「私は日替わり」

「それは冒険なのか」

「今日は知らない料理の日」

「日替わりの内容見てないのかよ」

「見てない。大学生活は挑戦が大事だから」

「食堂で使う言葉じゃないだろ」

 会話をしながら列に並ぶ。

 昨日はほぼ初対面だったのに、今は妙に話しやすかった。

 理由は分からない。

 陽菜がよく喋るからかもしれないし、こちらが多少無愛想でも勝手に話を続けてくれるからかもしれない。

 注文を済ませ、料理を受け取る。

 陽菜の日替わりは、鶏肉のトマト煮だった。

「普通じゃん」

「もっとすごいもの出ると思ってた」

「何を期待してたんだよ」

「大学の学食なら、名前の知らない外国料理とか」

「青葉ヶ丘大学を何だと思ってるんだ」

「国際的な場所」

「偏見が雑だな」

 席へ戻ると、千紗がスマートフォンをいじりながら待っていた。

「遅い」

「陽菜が学食に冒険を求めてた」

「また変なこと言ってるの?」

「今日みんな私に厳しくない?」

「今日じゃなくて普段からだよ」

 三人で食べ始める。

 しばらくは講義の話や大学の施設の話をしていた。

 千紗の名前は水野千紗。陽菜と同じ経済学部で、入学式の日に隣の席になって以来、一緒にいることが多いらしい。

「香坂君はサークル入るの?」

 千紗に聞かれ、俺は首を振った。

「今のところ予定ない」

「何か興味あるものないの?」

「特には」

「もったいない。大学なんて変な人に会うために行くようなところなのに」

「授業受けろよ」

「授業も受ける。その上で変な人にも会う」

「欲張りだな」

「陽菜なんて陸上部だから、ほぼ高校と同じ生活してるよ」

「悪かったね。走るの好きなんだからいいでしょ」

 陽菜はそう言ってトマト煮を口に入れた。

 次の瞬間、少し目を見開く。

「美味しい」

「普通に当たりだったな」

「うん。冒険成功」

 嬉しそうに食べる。

 俺は何となくその様子を見ていた。

「何?」

 陽菜がすぐ気づいた。

「別に」

「今、見てたでしょ」

「見てない」

「見てた」

「見てたとして何だよ」

「昨日のことがあるから、香坂君が黙ってこっち見てるとちょっと怖い」

「何でも匂いに結びつけるな」

「だって匂いに敏感なんでしょ」

 千紗がそこで食いついた。

「何それ」

「あ」

 陽菜が止まる。

 どうやらまだ詳しく話していなかったらしい。

「香坂君、鼻すごくいいんだって」

「どのくらい?」

「分からない」

「夏目も知らないのか」

「昨日ちょっと聞いただけだもん」

 千紗が俺を見る。

「例えば、何が分かるの?」

「近くにあるものなら大体」

「この学食で?」

「揚げ物、カレー、コーヒー、あと誰かがオレンジの香水つけてる」

「本当に?」

「香水はあっち」

 俺が斜め後ろの席を見る。

 千紗も振り返った。

 そこには女子学生が三人いて、そのうち一人が小さな香水瓶をバッグから取り出していた。

「へえ」

 千紗の目が輝く。

「すごいじゃん」

「便利じゃないぞ」

「でも特殊能力みたい」

「嫌な匂いも全部分かる」

「ああ、それはきつそう」

「満員電車とか最悪」

「確かに」

 陽菜が黙ってこちらを見ている。

「何」

「いや」

「またそれか」

「昨日より、ちょっと分かった気がして」

「何が」

「香坂君が、私のことからかってなかったってこと」

 俺は箸を止めた。

「まだ疑ってたのか」

「だって普通は疑うよ」

「まあ、それはそうか」

「そうだよ」

 陽菜は少し笑った。

 その笑顔は、昨日やさっき見せた作り物っぽい笑い方ではなかった。

「じゃあさ、今の私は?」

「何が」

「……匂い」

「また聞くのか」

「確認」

「何の」

「昨日は部活帰りだったじゃん。今日は違うから」

「だから?」

「どう違うのかなって」

 千紗が面白そうにこちらを見ている。

「陽菜、昨日は嫌がってたのに自分から聞くんだ」

「うるさいな。気になるんだから仕方ないでしょ」

 俺は少し迷った。

 本当に答えていいのか。

 だが、陽菜は真剣な顔をしている。

「今日は石鹸と柔軟剤」

「それだけ?」

「あとコーヒー」

「コーヒー?」

「朝飲んだ?」

「飲んだ。カフェラテ」

「たぶんそれ」

「分かるんだ……」

 陽菜は自分の服の袖を少し持ち上げ、匂いを確認するように鼻を近づけた。

「私には全然分かんない」

「本人は慣れるからな」

「じゃあ、昨日の私と今日の私って、結構違う?」

「違う」

「どっちのほうが……」

 言いかけて止まった。

「何」

「何でもない」

「言えよ」

「いい」

「途中でやめるなよ」

「言いたくない」

 千紗がにやにやしている。

「私、何聞こうとしたか分かった」

「言ったら怒る」

「昨日と今日、どっちの匂いが好きか聞こうとしたでしょ」

「水野さん!」

「名前呼びが急に怖い」

 陽菜が顔を真っ赤にする。

 俺も何と答えればいいか分からない。

「いや、別に聞いてもいいけど」

 そう言うと、陽菜がこちらを見た。

「じゃあ、どっち?」

 本当に聞くのか。

 俺は少し考えた。

「昨日」

「……え」

「昨日のほうが夏目っぽかった」

 また沈黙した。

「何それ」

 陽菜の声が、妙に小さくなる。

「聞いたから答えただけだろ」

「そうだけど」

「嫌なら聞くなよ」

「嫌じゃないけど」

 陽菜は箸でトマト煮をつつき始めた。

 さっきまで美味しそうに食べていたのに、急に落ち着かない。

 千紗が俺へ視線を向ける。

「香坂君」

「何」

「あなた、たぶん結構危ない人だよ」

「やっぱり?」

「自覚あるんだ」

「昨日から少し」

「陽菜みたいなのは、そういうこと真顔で言われると弱いから気をつけたほうがいい」

「千紗!」

「何よ。本当じゃん」

「本当じゃない!」

「じゃあ何で耳まで赤いの」

「暑いから!」

「食堂、冷房入ってるけど」

「トマト煮が熱い!」

 陽菜は完全に墓穴を掘っていた。

 俺はそれを見ながら、何となくおかしくなって笑った。

「また笑った」

「悪い」

「今日二回目」

「数えてるのか」

「覚えてるだけ」

「細かいな」

「香坂君に言われたくない」

 そう返されて、俺は少しだけ言葉に詰まった。

 確かに。

 俺は匂いを覚える。

 陽菜は会話を覚える。

 大したことではないのに、妙に印象に残った。

 食事を終え、三人で食堂を出る。

 千紗は次の講義が別棟らしく、途中で別れた。

「じゃあね。陽菜、もう逃げるなよ」

「逃げてない!」

「香坂君、また面白いことあったら教えて」

「何で俺が報告するんだ」

「観察対象として」

「人を勝手に観察するな」

「じゃあね」

 千紗は手を振って去っていった。

 残された俺と陽菜は、しばらく同じ方向を歩く。

 微妙な沈黙。

 さっきまで千紗がいた時はあれだけ喋っていたのに、二人になると妙に静かだった。

「香坂君」

「何」

「朝はごめん」

「別にいい」

「ほんとにちょっと気まずかっただけだから」

「分かった」

「嫌いとかじゃないから」

「そこまで言わなくていい」

「言わないとまた変に思うでしょ」

「俺、そんなに気にしてないぞ」

「……そうなんだ」

 少し残念そうに聞こえた。

 気のせいだろうか。

「何だよ」

「別に」

「そればっかりだな」

「香坂君もでしょ」

 少し歩いてから、陽菜が笑った。

「でも、今日は普通に話せてよかった」

「昨日も普通だっただろ」

「普通じゃない。初対面で汗の匂い好きって言われるのを普通って呼んだら、世の中かなりおかしくなる」

「それはそうだな」

「認めるんだ」

「さすがに」

 陽菜はまた笑った。

 その笑い声が、春の風の中へ溶けていく。

「じゃあ、またね」

 分かれ道で陽菜が立ち止まった。

「明日は逃げるなよ」

「もう逃げないって」

「大学っぽいやつ買わなくていいのか」

「それ一生言う気?」

「夏目が昨日のこと一生言うなら」

「それは卑怯」

「お互い様だろ」

「じゃあ、忘れる努力はする」

「俺もする」

「……本当に忘れるの?」

 陽菜が一瞬だけ真面目な顔をした。

「何を」

「何でもない」

 そう言って、今度こそ背を向ける。

 数歩進んだところで、陽菜が振り返った。

「香坂君」

「何」

「昨日のほうが私っぽかったって言ったの、あれも本気?」

「本気」

 陽菜は数秒黙った。

「そっか」

 それだけ言って走り去った。

 今度は逃げるような走り方ではなかった。

 ただ、かなり速かった。

 俺はその背中を見ながら、何となく思う。

 昨日より話しやすくなった。

 それで十分なはずだった。

 なのに、陽菜が見えなくなったあとも、さっき最後に見せた表情が頭に残っていた。

 それからもう一つ。

 今日の陽菜からは確かに石鹸と柔軟剤、それから微かにコーヒーの匂いがした。

 清潔で、誰からも好かれそうな匂いだった。

 でも。

 昨日、走ったあとに感じた、汗と日差しの混じった匂いのほうが、なぜか俺には強く残っている。

「……また考えてるな、俺」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、俺は次の講義へ向かった。

 その日の夕方。

 俺はさらにもう一度、陽菜を見かけることになる。

 そしてそこで初めて、彼女が毎日どれだけ大量の制汗用品を持ち歩いているのかを知ることになるのだった。

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